徒然記弐

灌仏会と五色の香水
「灌仏会」(かんぶつえ)

生まれたばかりのお釈迦さまは天と地を指さし「天上天下唯我独尊」と唱えたといわれ、難陀龍王、優婆難陀龍王らが祝福をして甘露の雨を降らせたという伝説にちなんで甘茶を注ぎかける行事です。

平安時代から江戸期に掛けては甘茶ではなくて「五色の香水(こうずい)」をかけていたようです。

以五色香水浴佛。五色香水是以都梁香(泽兰)为青色水,郁金香为赤色水,丘隆香(一种印度香料)为白色水,附子香为黄色水,安息香为黑色水。

五色の香水を以って佛を浴する。云々、とありますように、青色水=都梁香、赤色水=欝金香、白色水=丘隆香、黄色水=附子香(香附子のことでしょう)、黒色水=安息香です。
実際に使用されていた香も時代で変わっている可能性もあります。

いずれにしても中々の手間が掛かっていたので、やがて甘茶の葉と甘草とで煮出した現在の甘茶に変わっていきました。中国から黄檗宗が伝えたとされています。

「花祭り」という名称

五色の香水を灌ぐ以外にもお布施をしていたようです。
大臣は〇両、大納言は〇両、中納言は〇両、などと官位でお布施が定められており、宮中の行事として大切にされていたようですね。
花をお供えし、紙に包んで供えたお布施に色とりどりの花飾りを施したことなどから、「花祭り」と呼ぶようになったようです。当日はかなり羽目を外して浮かれていたといった記述もあります。

参考資料『年中行事百科』八條忠基
ラトナーカラの讃仏偈
仏陀ことお釈迦さまのお誕生日を迎えました。とある方より、「お釈迦さまを讃える経文や言葉などはありますか」と問われたので、ここにラトナーカラが【世尊(仏陀のこと)が法を説いたことに満足し歓喜してこのように讃嘆した】という偈頌を載せておきます。こちらは『維摩経』(ゆいまきょう)に説かれている讃仏偈になります。和文ですがそのまま口に出して唱えてよいでしょう。
参考資料 梵文和訳『維摩経』訳 高橋尚夫、西野翠

(リッチャヴィの青年ラトナーカラは、世尊の間近でまさにこのような大奇跡を目の当たりにして、一方の方に上衣を掛け、右の膝頭を地に着けて、世尊のおられるところ、そのほうに合掌を傾けて、世尊を偈頌をもって賛嘆した。)

以下引用

ラトナーカラの讃仏偈

広長の眼は美しく清らかで、妙なる青蓮の花弁のようであります。
こころざしは清浄で、最上なる寂静[止]の完成に到達し、
浄業を積み、功徳は広大にして無量、
沙門の寂静の道に導きたまえるあなたに頂礼いたします。(一)

牡牛のような勝れた導き手の神通を見たてまつれば、
善逝の妙なる国土の輝きが現れます。
また、不死へと到らしめる偉大にして勝れた法語、
そのすべてがこの天空から聞こえてきます。(二)

あなたのこの勝れた法の王国は法によって統治されました。
勝利者よ、あなたは世間に法と財とを施します。
法の分析に巧みであり、勝義を示し、
法に自在である法王に私は頂礼いたします。(三)

『まさに[諸法は]存在するのでもなく、存在しないものでもない。
これら一切諸法は因によって生じたのである。
まさにそこには我もなく、また行為者も、あるいは感受する者もない。また、
いかなる浄業も不浄業も滅することはない』と、あなたはお説きになります。(四)

力ある聖者の王よ。あなたによって悪魔は征服され、
吉祥にして不死寂静の勝れた最高の悟りが得られました。
そこには感受はなく、心・意の揺れ動くこともありません。
一切の外道の衆は、[その]深さに達することはないのです。(五)

あなたにより、多様で、寂静で、自性清浄である
[法]輪が三度転じられました。
天と人にとって、類い稀なる法王が現前したのです。
まさにこのとき、三宝が示されたのであります。(六)

あなたにより、法宝によって正しく調伏された人々、
彼らに分別はなく、さらに、彼らは常に寂静であります。
死・生・老に終わりをもたらす最上の医師、
海のような無量の功徳をそなえたお方に私は頂礼いたします。(七)

あなたは、尊敬をもって拝されてもメール山のように動かず、
破戒の者も、持戒の者も平等に慈しみ、
心は虚空に等しく、平等性に住しておられます。
この衆生の宝に、いったいだれが供養せずにおられましょうか。(八)

偉大な聖者よ、やって来た人々は清らかな心をもって、
あなたの尊いお顔を仰ぎ見ます。
また、すべての[人々が]勝者を面前に見るのです。
[それが]勝者に特有な仏陀の特徴(不供仏法)であります。(九)

また、世尊よ、あなたは一語を放たれましたが、
集会はさまざまな語音と理解します。
また、人々は自分なりに意味を理解します。
[それが]勝者に特有な仏陀の特徴であります。(一〇)

一語が放たれたために、
ある者は執着し、ある者たちは開悟します。
導師は疑いをいだくものたちには、疑いを除きます。
[それが]勝者に特有な仏陀の特徴であります。(一一)

十力があり真に勇者たるあなたに私は頂礼いたします。
畏れを離れた施無畏者たるあなたに私は頂礼いたします。
諸法における[十八の]不供仏法を確定した
一切世間の指導者たるあなたに私は頂礼いたします。(一二)

[輪廻に]結び付ける束縛を断ち切ったお方に私は頂礼いたします。
彼岸に至り、そこに立てるあなたに私は頂礼いたします。
疲弊した人の渡し守であるお方に私は頂礼いたします。
輪廻の道にとどまらないお方に私は頂礼いたします。(一三)

衆生たちとともに、[輪廻の]道を歩み、
すべての道において心が解脱しているお方に[私は頂礼いたします]。
蓮華のような聖者よ、蓮華が水に汚されないように、
あなたは空性を実践しておられます。(一四)

あらゆるとらわれをすべて離れたあなたには、
いかなるものも求めることがありません。
不可思議にして、仏陀の大威神力を有し、
虚空にも等しく、依り処をもたないお方に私は頂礼いたします。(一五)

令和六年卯月記
西院流

久しぶりの更新となります。
長らく授法していました西院流能禅方の伝授が終わりました。東寺の塔頭であります宝菩提院に伝わっている流派になります。現在の後七日御修法で用いられる法流の1つになります。
沢山の資料などを頂いたので、早速復習に入っています。学ぶことばかりですね。
貴重な法縁に感謝いたします。

おまけ
伝授などで京都など行く時には法衣・資料などで荷物がいっぱいになるので、極力荷物を減らす工夫をしています。その中でお気に入りなのが写真右のステッドラーの多機能ボールペンです。通常のペンの細さで三色+シャーペンまで入っていますので、これ1本で事が足りるので筆箱要らずとなりました。替え芯も安価で売っていますのでオススメです!

縁とはいったい何なのか?

年の瀬となりました。早いものですね。
令和5年は毎月の護摩供で「因」「縁」「果」について、また「縁」とはいったい何なのか?ということを年間を通して話しました。12月の護摩供で終わりとしてまとめました。

この世の事象の全ては縁によって生じ、縁によって滅びます。
雨の降るのも、風の吹くのも、葉の散るのも縁があるからそうなるわけです。

私はしばしばこの縁を条件(必然的な条件)と解釈して説明しています。

この身は父母を縁として生まれ、食物によって維持され、また、この心も経験と知識によって育ったものである。だからこの身もこの心も縁によって成り立ち縁によって変わるといわなければならない。花は咲く縁が集まって咲き、葉は散る縁が集まって散る。ひとり咲きひとり散るのではない。

全ての事象に縁が関わっています。縁を無くしては何も起こらないと仏教では説きます。
唯一神や絶対神が存在し神によって定められるわけではありません。

「風が吹けば桶屋が儲かる」
というのはさまざまな縁によってその結果、桶屋が儲かるというオチにつながっていきます。
つまり、全ての出来事に縁が関わっているのであれば、良い縁(条件)となるような選択をして生きていけばよい、ということになります。良い縁とはより功徳を積める道、より人のためとなる道を選ぶということで、決して私利私欲のための道ではありません。

もし、縁から切り離されたい、縁とは無関係に生きたい! と願うのであれば、輪廻の輪から抜け出して、悟りを得ればよいでしょう。そうすれば、生も死も超越し、あらゆるこの世の道理から外れることになりますので、悟りを得れば、縁なき永遠の境地に住することができます。私はこの輪廻の中でもがき苦しんで生きていきます(笑)

まとめ
一年を振り返りまして、沢山の人との出会い(ご縁)を頂きました。不思議なものですね。
来年も良き縁を育んでいけるように精進いたします。
関わる全ての方々が善き年になりますよう心よりお祈り申し上げます。
令和五年師走記


目に見えるものも、見えないものも、遠くに住むものも、近くに住むものも、
すでに生まれたものも、生まれようと望むものも、すべてのものは、安楽であれ
スッタニパータ一四八

インド神話と世界情勢
僧侶や仏教のお勉強をされる方はインド神話をその中でも「マハーバーラタ」は必読書だと思っています。
マハーバーラタとは1つの物語ではなく、多くの神話の集まりで余りにも膨大なので全てを読んではいませんが、それでも訳本をいくつか所持しています。「ナラ王物語」「サーヴィトリー物語」などが人気です。ヒンドゥー教徒が日夜唱えている「バガヴァット・ギーター」も含まれます。マハーバーラタを含むインド神話はかなり仏教に影響を与えています。

仏教の器界観(世界観)はこれらをなくしては語れません。

インド神話ではデーヴァ軍とアスラ軍との争いの場面が人気です。前半はデーヴァ軍のリーダー、インドラ(帝釈天)の活躍が描かれ、やがてはさらに力をもった神が現れてきます。神話の一つである「ラーマーヤナ」ではインドラジットつまりインドラに勝利したものが現れたり、神話の後半ではスカンダ(韋駄天)というより力の強い神が出現します。スカンダの強さたるや別次元でインドラが全く歯が立たなかったなんて話もあります。
「毘沙門天」で調べますと「ベイシラヴァナ、八大夜叉の主、羅刹を眷属にしている」などといった表記がでます。神話を読み解きますと、どのように夜叉や羅刹を従えたのか、なぜランカー山に住するのか、などが描かれています。ベイシラヴァナの活躍の話や、おっちょこちょいで敵にやられてしまう話(悲しいのですが)などもあります。
インド神話と日本密教とでは立場が違ったり、妃や眷属が異なったりといった相違点も見えてきます。
胎蔵界曼荼羅にはインドの神々が神話の姿のまま取り込まれているのも興味深いところです。
近頃、新しい訳本を手に入れましたのでまた読み進めていこうと思います。


神話の中では恐ろしい力と兵器を持つ神々が争いを起こすので何度も世界が破壊されています。

そして、現在、地球の各地で争いが起きています。

それぞれが自分の正義という立場のもとで行動を起こしているのでしょうが、無力な一般民が危険にさらされ、多くの一般民の命が失われています。文明が進み、神話に出てくるようなお伽噺が現実になりつつあります。
世界を破滅できるほどの恐ろしい兵器を作り上げている中での武力行使は、何より恐ろしく何より愚かな行動です。人間はいつから偉くなったのでしょう。地球の支配者にでもなったのでしょうか。

人間は他の種族との戦いに勝つために、人間同士の戦いに勝つために、より力を求めてきました。神という存在を必要とし神の力を欲し思想が生まれ哲学が生まれそれがやがて「宗教」「科学」として発展をしていきました。ついには科学の発展により世界を破壊できるほどの大いなる力が手に入るようになりました。この先どこへ向かうのでしょう。破壊ではなくて守るために使って欲しいと願っています。

犠牲になった方々へ哀悼の意を表しまた冥福を心よりお祈りいたします。
令和五年十月記
菩提樹の数珠

数珠(じゅず)または念珠(ねんじゅ)という呼び方をします。
文字通りお経や真言の数を数えるための持ち物です。

こちらは金剛菩提樹にメノウの石が入ったもので、住職晋山記念として、お世話になっている数珠屋さまから頂きました。早速今月の護摩供にて使用いたしました。感謝申し上げます。

ぼちぼちとお盆参りが始まりました。
バイクのエンジンが不調ですが馳せ参じますのでよろしくお願いいたします。
また、あわせてお盆の法要に向けて塔婆と水子供養札を書いています。法要へご参加下さる方はどうぞお気をつけてお越しくださいませ。お待ちしております。
令和五年八月記
POST CARD 第三段作成中
新たにチベットタンカを奉納いただきました。
今回はついにベイシラヴァナ(毘沙門天さま)を描いてくれました。吉祥天さま善膩師童子さま、当院のお地蔵さまなどが描かれています。つい手を合わせてしまいます。
また、それに伴いまして毘沙門天さまのPOSTCARDを作成中です。
お披露目はもう少し先になります。お楽しみにどうぞ。
平日でもお写経が可能です
高野山と京都の旅を終えて帰り着いた翌日に2名の方からお写経のご参加をいただきました。
ありがとうございました。(掲載許可をいただいております)
「第三日曜のお写経会には来られないけど写経をしてみたい」という方はお電話などでご希望日時をお申し出くだされば私が居る時は対応いたします。どうぞお申し出くださいませ。
令和五年五月二十五日記